本因坊秀甫、第4回囲碁殿堂入り




 本因坊秀甫は江戸幕府の崩壊から明治へと移る混乱期に碁界が衰退する中、「方円社」という囲碁の団体の設立、海外への囲碁普及活動などが評価されて囲碁殿堂入りを果たすことになった。


 秀甫は1838年(天保九)上野車坂下に生まれ、隣には本因坊家の道場があったことから碁に興味を持ったとされる。本姓村瀬、幼名弥吉。八歳で本因坊家に入門し、11歳で入段する。その後坊門塾頭となり、御城碁出仕のため剃髪して秀甫と改名する。しかしこの時期幕府は崩壊寸前で結局「御城碁」は廃止されてしまい、その晴れ舞台には上がることがなかった。この頃兄弟子秀策は急逝し、跡目にもなれず、明治維新前後は遊歴を繰り返す。


 1879年(明治12)、家元制度の崩壊で庇護を失い、困窮した棋士たちを呼び集めるために、「方円社」を中川亀三郎らと共に尽力し発足させる。同年に初の囲碁雑誌「囲棋新報」が発行され、これは方円社の機関紙として大正13年まで520号を数えた。級位制を採用するなどの段位改革にも取り組み、免状の発行、アマチュアや海外への普及活動などは日本棋院の活動の基礎を築いたともいってもよいであろう。


 秀和の次男である本因坊秀栄とは親しかったり反目しあっていたりした時期もあったが、1884年(明治17)より十番碁を始める。その第九局の後、1886年(明治19)に秀栄から念願の本因坊位を譲られたが、わずか2ヵ月半後、49歳で生涯を閉じた。中江兆民『一年有半』という随筆の中で「近代非凡人三十一人」に数えられるほど社会的評価は高く、また俳句や書、盆栽などの趣味を持つ一面もあった。





 

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